横浜西口のゲームセンターパソピアードが令和5年(2023年)6月27日を以って閉店となりました。対戦格闘ゲームブーム時において間違いなく神奈川エリアの随一のメッカでした。そのお店もゲームを取り巻く様々な環境の変化の流れの中で消えました。時代、と言えば仕方ないように思えます。しかし私を含めて大勢のプレイヤーが少なくない時間を過ごした思い出の場所が無くなることはとても残念な出来事です。
パソピアードの常連だった日々
私がパソピアードに出入りしていたのは1990年代です。その頃の私はシューティングゲームを専らやっており、特にセイブ開発の雷電を好んでやっておりました。またちょうどその頃に私は東京の企業に就職して通勤の乗り換えが横浜駅でした。横浜のゲーセンってどんな感じ?とたまたま立ち寄ったパソピアードで驚愕します。雷電で楽々と宇宙ステーション面まで行ってるプレイヤーがいる!私なんてステージ4がやっとだったのに。やっぱ横浜は凄いな、と。それ以来私は雷電のプレイ見たさにパソピアードに連日寄るようになりました。もちろん対戦格闘ゲームも大盛り上がり。その頃はうろ覚えですがカプコンのバンパイアあたりだったような。
この頃は私は対戦格闘ゲームは全然やってませんでした!
なんか乗り遅れてやりそびれたんだよな!
そんな私もパソピアードで対戦格闘ゲームをやるようになります。パソピアードを拠点としてプレイしてきたゲームは下記の通り。
- X-MEN CHILDREN OF THE ATOM (1994年)
- ストリートファイターZERO (1995年)
- ファイティングバイパーズ (1995年)
- バーチャファイター3 (tb) (1996年)
- ラストブロンクス (1996年)
- ストリートファイター3 (1997年)
- ファイティングバイパーズ2 (1998年)
横浜駅西口にはパソピアードの他にもジャンボ、アメリカングラフィティ(通称アメグラ)、ブリーズ、フリーダム、7アイランドなどのゲームセンターがあり、対戦格闘ゲームも置いてありました。当然その店の常連プレイヤーも居ましたが、やはりなんといってもパソピアードに集まる層の厚さはエリア随一でした。そんな環境を根城としてやっていたせいか近隣エリアの他のゲーセンでプレイしてもそこそこ強いプレイヤーで居られました。
例外は新宿駅周辺全般、渋谷駅ハイテクランド周辺、池袋駅東口エリア!
あの辺りはまさに修羅の国だったな…!
パソピアードから疎遠に 複雑化し過ぎた対戦格闘ゲーム
その後、私は転職などがありパソピアードに足が向かなくなりました。転職で通勤に横浜駅を使わなくなったことが大きな理由です。バーチャファイター4(2001年)が稼働した時も時々横浜に出向く程度で、ゲームセンターそのものにあまり行かなくなってました。当然ながらパソピアードに出入りするメンバーも移り変わり、私はパソピアードの常連ではなくなりました。
さらにその後にまた転職をして再び横浜駅が通勤ルートになりました。まさにちょうどその頃にバーチャファイター5(2006年)が稼働し始めます。しかしながらその頃には私にはもはや横浜パソピアードという第一線級のプレイヤー環境でプレイする実力などあるはずもありません。横浜でプレイはしますがパソピアードは明確に避けてました。
バーチャファイター5の頃になるとキャラも随分増えています。対戦格闘ゲームでは自分が使うキャラ以上に相手が使うキャラの技をすべて把握しておく必要があります。キャラが増えたということは否応なく覚えることの上積みです。相手の手の内を読むには相手の出せる技性能を知る必要があり、技性能を知るためには課金も同然の勉強代金を支払う必要があります。1キャラの技性能を把握するのも大変なのに複数となると…。もはや付き合いきれない。そういう思いもありました、正直。
増して、宝箱争奪戦などでコスチュームやアイテム欲しさに仲間内で捨てゲー。争奪戦が出たら順番で自らリングアウト。これはもはやゲームではなく射幸心を煽るただの確率ゲームではないか?そんなメーカーによる自身の(産み出した)資産を自ら食い潰す姿勢にも疑問を感じてもいました。
いかにプレイヤーから金を引き出すか
昔からのゲームを知っている私にはこの頃のアーケードゲームの開発姿勢が大嫌いでした。それなりに対戦成績もアイテムも記録してあるプレイカードはどこかに無くしました。私感ですがアーケードの対戦格闘の衰退要因のひとつにはメーカーの迷走と自縄自縛があると考えています。
楽しいゲームより儲かるゲーム!
それってメーカー側のエゴですよね!
パソピアード最後の日 私が最後にプレイしたゲーム
話が大きく逸れました。パソピアードは私が横浜を思い起こす上でまず最初に来る場所なのです。そんな場所が無くなる。実はそのことを知ったのはバーチャファイター3の頃の仲間の連絡からです。
パソピアードが明日で閉店するってさ。
随分久しぶりの方からの連絡はなんだか最終通告のような重さがありました。その閉店日は私は埼玉で仕事があったので行けるかどうかわかりませんでしたが、時間があれば行こうと考えました。そして首尾よく時間が持てました。パソピアード最後の日に立ち合うべく私は横浜パソピアードへ向かいます。
なんか相鉄線がJR乗り入れで訳分からないことになってるし!
停車駅が変わり過ぎ!
ともあれ私は横浜パソピアードの最後の日に入店できました。なんというか格闘対戦ゲームで大賑わいだったあの頃とは見違うような閑散ぶり。時代なのかと。禁煙だし。
店員さんに話を聞いてみる。ネットワークゲームのインカムに対してメーカーに支払うマージンやコロナ以降の客数の減り、ここ最近の電気料金の値上がりなどで、もはやこの立地でゲームセンターをやる意味がない。今の客数が倍になってようやくトントン。別の業態の店やった方が儲かる、とのことでした。時代なのかと。禁煙だし。※私はタバコを2010年に止めてます。
最後に何か(ゲームを)やってってくださいよ
店員さんが私に言う
そうだね そうするよ
店内を見渡す
一つにいくつもゲームが入ってる筐体を発見
ゲームリストを見る
やはりあった
雷電
そう これ
このゲームこそ私のパソピアード通いの始まりのゲーム
そして私のパソピアード最後のゲームはこれ以外ない
100円入れてゲームスタート
順調 のち苦戦
ゲームオーバー
うん 終わった
私のパソピアード納め 終わった
たくさんの思い出をありがとう
2000年世紀末の横浜西口ゲーセン風景
ここでは1999年頃に撮ってあった横浜西口周辺のゲームセンターの画像を掲載します。なんでそんなデータがあるかというと、まさにこのサイトの前身である遊戯狂年代紀で横浜西口ゲーセンマップなる記事を書いていたからです。またゲームをプレイしている画像はゲーム仲間で飲み会やった後の二次会、という話です。そうです。ゲーマーの飲み会の二次会はゲーセンなのです。別に誰かがパソピ行こうぜと言うでもなくみんな自然とそこに向かうという。
帰巣本能?
本当にただのゲーム中毒だったんだと思う!
あの頃の横浜西口界隈は忘れない!
活気のある掃き溜めというか、界隈という単語がとても馴染む一角でした!